تسجيل الدخولダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。
今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。
余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」 「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」 「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。
服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」ゴードンが封筒を差し出した。
「ダリウスの件についてですか」 「そうだと思います」 エリナは封を開けた。エリナへ
ダリウスのことを、もう少し調べた。 先月、クロヴェル侯爵と息子の間で、宮廷の晩餐の席で珍しく言い合いがあったらしい。内容まではわからない。でも、その後からダリウスが父親の主催する会合への出席を減らしている。 ダリウスを知る人間に話を聞いたら、「あの方は昔から、父上のやり方に迷いがあった」と言っていた。具体的なことは言わなかったけど、その人の目が正直だったから、たぶん本当のことだと思う。 会う前に一つだけ言っておく。ダリウスは、感情で動く人間じゃない。でも感情がない人間でもない。その両方が同時に本当。だから、正論だけで押しても、感情だけで押しても、どちらも刺さらない。 あなたが一番自然にやれることをやればいい。それが、たぶん一番効く。 ――フィオナ――エリナは手紙をたたんだ。
あなたが一番自然にやれることをやればいい。 フィオナらしい言い方だった。 戦略でも、感情でもなく、「自然に」。 それが何なのか、エリナは少しだけ考えた。 答えが出る前に、扉がノックされた。ダリウス・クロヴェルは、前回と同じく整った顔と礼儀正しい物腰で現れた。
だが、何かが違った。 前回は、完璧だった。隙がなかった。今日は——完璧なのに、どこかに疲れがある。目の下の皮膚が、わずかに薄い。 エリナは立ち上がって、頭を下げた。 「お越しいただき、ありがとうございます」 「こちらこそ、お時間をいただいて」 ダリウスが席に着いた。ゴードンが一歩引いた場所に座った。 「今日は、前回より正式な形でお話をしたいと思いまして。前回は、少し、段取りが悪かった」 「いいえ」 「いいえ、ではありません」ダリウスが穏やかに遮った。
「あの時の私は、お父上の話を利用した。それは、誠実ではなかった」
エリナは少し止まった。 予想していなかった言葉だった。 「利用した、とは」 「アッシュフォード侯爵の名前を出すことで、あなたの感情に触れようとした」ダリウスが静かに続けた。
「交渉の技術として、それは有効かもしれない。でも——あなたに対してやるべきことではなかった」
エリナはダリウスの目を見た。 前回と同じように、穏やかで、礼儀正しい。でも今日は、目と言葉のズレが、少ない。 「なぜ、今日それを言うのですか」 「時間がかかりました」ダリウスが少しだけ視線を落とした。
「自分の中で、整理するのに」
「何を整理したのですか」 少し間があった。 宿の外から、市場の人の声がかすかに聞こえた。 「父のことです」 ダリウスが、静かに言った。エリナは何も言わなかった。
促すのではなく、ただ待った。 前世の経験で知っていた。こういう種類の沈黙を急かすと、相手は本当のことを言わなくなる。 「父は」ダリウスが続けた。
「常に正しいと信じていました。家のため、王国のため、魔法の権威のため。そのためなら、手段を選ばない」
「あなたは、それを正しいと思っていますか」 「思っていません」 即答だった。 だが、その即答の後に、ダリウスが小さく息を吐いた。 「ただ、思っていないと気づくのに、時間がかかった」 「なぜ時間がかかったのですか」 「家の中にいると、父の論理が当たり前になる。『魔法こそが王国の礎』『それを守ることが貴族の義務』。毎日その言葉の中にいると、疑うことが難しくなる」 「疑うきっかけがあったのですか」 ダリウスが少しだけ、エリナを真っ直ぐに見た。 「あなたが、ルシェムでやっていることの話を聞いた時です」 エリナは眉を動かさなかった。 「子どもの病気が減った。傷の治りが早くなった。魔法を使わずに。それを聞いた時に、父が何と言ったか、覚えていますか」 「直接は聞いていません」 「『下らない』と言いました」ダリウスの声が、ほんの少し変わった。
「『平民が魔法の代わりに石を積んでいる程度のことだ』と」
エリナは何も言わなかった。 「でも私は、ルシェムの数字を見ていた。魔法省の報告書に、ルシェムの衛生状態の改善が載っていた。数字は嘘をつかない。子どもが死ににくくなっている。それを『下らない』と言う父の言葉が、初めて、私には正しく聞こえなかった」沈黙があった。
エリナはその沈黙の中で、フィオナの言葉を思い出した。 正論だけで押しても、感情だけで押しても、どちらも刺さらない。 今、ダリウスは自分から話している。 ということは、今日の自分の役割は、押すことではない。 「ダリウス様」エリナが口を開いた。
「はい」 「一つ、正直に聞いてもいいですか」 「どうぞ」 「今日ここに来たのは、クロヴェル家の意向ですか。それとも、あなた自身の意志ですか?」 ダリウスが、少し目を細めた。 「どちらだと思いますか」 「判断するための情報が足りません。だから聞いています」 ダリウスが少しだけ、口の端を動かした。 「父は、知りません。今日ここに来たことは」 「つまり」 「私個人の意志で来ました」 エリナはゴードンを横目で確認した。ゴードンの表情は変わらないが、ペンを持つ手が止まっていた。記録を止めて、聞いている。 「なぜ、父上に知らせずに」 「知らせれば、止められるからです」ダリウスが答えた。「あるいは、目的を書き換えられる」 「目的、とは」 「あなたに、謝罪をしたかった。前回の訪問での不誠実さについて。そして——」 また少し間があった。 「父がルシェムの作業場に調査を入れたこと。それについても」 エリナの指先に、力が入った。 机の上に置いた手を、動かさなかった。 「調査のことを、知っていたのですか」 「知りました。事後に」ダリウスの目が、わずかに曇った。
「止められなかった。それは、私の力不足です」
「作業場の油の痕も」 ダリウスの顔が、少し固くなった。 「それは——知りませんでした」 エリナはダリウスの目を見た。 嘘の目ではない、と直感した。 でも直感だけで判断してはいけない。 「知らなかった、ということは」エリナはゆっくり言った。
「クロヴェル家の中で、あなたが知らない動きがある、ということですね」
「……そう、なります」 ダリウスの声が、初めてわずかに揺れた。エリナは少し考えた。
目の前の男は、父親の組織の中で、父親が知らない場所で動いている。しかし父親の動きの全貌も、自分では把握できていない。 それは——思っていたより、深刻な状況だ。 クロヴェル侯爵の組織が、息子にすら全部を見せていない。それはつまり、ダリウスが組織の中で完全には信頼されていないか、あるいは意図的に情報を遮断されているか、どちらかだ。 「ダリウス様」 「はい」 「あなたは今、何を望んでいますか」 ダリウスが少し驚いた顔をした。 「何を、とは」 「父上のやり方が正しくないと思っている。でも、家の中にいる。その状況で、あなた自身は何をしたいのですか」 長い沈黙だった。 ダリウスが窓の外を見た。市場の方向だ。人の声がかすかに届いている。 「正直に言います」ダリウスがゆっくり口を開いた。
「わかりません」
「わからない」 「父のやり方に従うことも、完全に背くことも、今の私にはできない。どちらも選べずにいる」 「それは、正直な答えです」 「……侮蔑ではないですか」 「侮蔑ではありません。どちらも選べない、と正直に言える人間は少ない。大抵は、どちらかを選んだふりをして、本心を隠す」 ダリウスが、エリナを見た。 「あなたは、私に何かを求めていないのですか」 「今日は何も求めていません」 「なぜ?」 「今日のあなたは、答えを出しに来たのではなく、話しに来た。だから私も、話を聞く場にしました」 ダリウスが少し目を細めた。 「……用心深いのか、それとも」 「合理的なだけです。あなたが何を求めているかわからない状態で、こちらが何かを求めても意味がない。まず、相手を知る方が先です」 「相手を知る」 「はい」 「では」ダリウスが少し声のトーンを変えた。
「あなたは今、私を何だと見ていますか。敵ですか」
エリナは少し考えた。 「わかりません」と、正直に言った。 「敵ではないかもしれない。でも、味方と言い切れる根拠もまだない。だから今日の時点では——」 「どちらでもない」 「そうです」 ダリウスが、深く息を吐いた。 それは、緊張が解けたような息だった。 「それで、十分です。敵でないと言ってもらえただけで」話は、そこから少しだけ柔らかくなった。
エリナが石鹸の普及状況を簡単に話した。ダリウスが聞いた。数字に興味を持つ目をしていた。 ダリウスが魔法省の内部の話を少しだけ話した。エリナが聞いた。 「資金の動きに、最近変化があります。特定の商人ギルドへの、非公式な支出が増えている」 「どの方向への支出ですか」 「物流関係です」 エリナは、それをそのまま顔に出さなかった。 でも頭の中で、フィオナの報告と繋がった。 商人ギルドへの接触。物流への介入。 「教えていただいて、ありがとうございます」 「役に立てばいい。ただ——」 「ただ?」 「これはあくまで私個人の行動です。クロヴェル家として協力しているのではない」 「わかっています」 「私が今後、父の意志に従って動くことも、あるかもしれない」 「それも、わかっています」 ダリウスが少し目を見開いた。 「……怒らないのですか」 「怒っても意味がない。あなたは、まだ迷っている。迷っている人間に、一方向だけを求めても、無理です」 「ずいぶん、冷静ですね」 「怒りを使う場面は、ここではない」 ダリウスがしばらくエリナを見ていた。 それから、静かに言った。 「アッシュフォード侯爵の娘だということが、今日、初めてわかった気がします」 「父のことを、知っていましたか」 「直接は知りません。でも、評判は聞いていました」 「どんな評判ですか」 ダリウスが少し間を置いた。 「論理で動くが、冷たくはない。数字で語るが、人を見ていない訳ではない。そういう人だったと」 エリナは、その言葉を胸の中に入れた。 返事はしなかった。 する必要がなかった。ダリウスは一時間ほどで帰った。
別れ際、立ち上がって頭を下げた。 「今日は、来てよかった」 「またお話ができれば」 「ええ」 ダリウスが扉を開けて、出ていった。 足音が廊下を遠ざかった。 ゴードンが、静かに言った。 「どう見ましたか」 「味方とは言えない」エリナがすぐに答えた。
「でも、今日の話は本物だったと思う」
「物流への支出の情報は?」 「本当だと思う。自分が提供することでリスクを取っている。嘘の情報でそのリスクを取る理由がない」 「ダリウス殿が、今後父上と完全に決別する可能性は?」 「今は低い。でも、ゼロでもない。もし決別するとしたら、何かきっかけが必要だ。それが何かは、まだわからない」 「今日の成果は?」 エリナは少し考えた。 「物流への介入という具体的な情報。それと——」 「それと?」 「ダリウスが迷っているということが、直接会ってわかった。報告書の言葉ではなく、本人の目で」 ゴードンが頷いた。 「フィオナさんへの報告は?」 「今夜書く。全部」その夜、エリナはフィオナへの手紙を書いた。
ダリウスが話した内容を正確に記録し、自分の観察を添えた。物流への支出の話。クロヴェル家内部の情報遮断の可能性。ダリウスが「迷っている」という直接の確認。 最後に、一行だけ付け加えた。 『「あなたが一番自然にやれることをやればいい」という言葉が、役に立った。ありがとう。』 書いてから、少しだけ止まった。 エリナはあまり「ありがとう」を書かない人間だ。礼は行動で返す、と思っているから。 でも今日は、言葉にしたかった。 封をして、机の端に置いた。 窓の外は静かだった。 ルシェムの夜。 ダリウスが去り、情報が一つ増え、盤面がまた少し動いた。 敵でも味方でもない人間が、世界には必ずいる。 そういう人間をどう扱うかで、戦い方の質が変わる。 エリナ・アッシュフォード、七歳。 今日のダリウスとの一時間は、今後の一年に、確かに意味を持つ。 そう確信しながら、ランプを吹き消した。物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発
ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。「眠くはない」「考えごとですか」「整理してる」「無理はなさらず」 ゴードンは短く言って、また黙った。 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」 声が、思いきり大きかった。 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」「誰から聞いたの」






